観光の業界紙にてダラける
次の職場は観光土産物業者向けの新聞を作る会社だった。
新聞といっても広告がメイン。
読者は地方のみやげもの業者だ。
記事はおまけのようなもので、観光や旅行関係の記事を全国各地の新聞から集めリライトし、印刷所にまわすというものだった。
同じ文章にしてはいけないから前後を入れ代えたり文末を変えたりする。
しかし「似た記事を見た」と読んだ人から電話が入ったりする。
そのたびに上の人は「通信社から記事を買っていますので」と言い訳していたようだ。
かなりヤクザな商売だ。
でも私たち(女子は私ともう一人、同い年のコがいた)は悪いことをしている意識はなかったように思う。世の中にはリライトという言葉があるし、広告はちゃんとデザインしていたし、、、
しかし、ちゃんと取材もせずに文章を書くことが業界人としてのプライドとしてはどうなのか? と考えずにいたように思う。
それまで広告などにちょっと首をつっこんだだけで、出版業界がどんなものかわかっていなかったのだと思う。
ただおじいちゃんたちとケチくさい社長に囲まれ、エレベーターのついていない汚いビルにウンザリしていた。
ときはバブルで、飲み会は頻繁にあり、旅行まであった。
会社も景気がよかったのだろう。
私たち二人は社長をはじめ、まわりからうるさいことは何も言われず好き勝手やっていた。
昼休みになると社長の部屋を陣取り「笑っていいとも」を見たりしたものだ。
もう一人の女の子は会社のうん臭さを最初からわかっていたのだと思う。
社員にはならずにアルバイトで通し、半年でさっさと辞めていった。
そしてちゃんと書店で売っているような出版社に就職した。
その後、また二人の女の子が入ってきたが、そのコたちとは合わず大喧嘩したりした。
それもあって、また次の会社を捜した。
運よく、私も書店売りをしているような雑誌の編集ができることになった。
このときは27歳ぐらいだったかと思う。
若さと東京という土地とバブルという時代はこうも人を好き勝手生きることを可能にしたのだ。
好きな仕事ができれば、は危険
仕事をたびたび変えた20代半ば。
不思議とこうした時期でも借金はしなかった。
東京に住んで家賃は5万円。
もちろん実家からの援助もない。
給料が安くても、正社員となり毎日会社に行くと、何とか暮らせるものである。
とは言っても高い洋服や化粧品を買う余裕はない。
部屋もおしゃれに飾り付ける気にもならない。
毎日の食事も貧しかった。
たまに友達と飲みに行ったり、半年に1回ぐらい1泊旅行に行くのがせめてもの贅沢であった。
そんな生活だったが貧乏だとの自覚がなかったんだろう。
次の会社もまた給料が安いところを選んでしまった。
編集の仕事ができるだけでいいと思ったのである。
観光みやげものの業界紙であった。
好きな仕事ができればお金は二の次という考えは危険だと今にして思う。
貧乏はとても消耗するのだ。
もっと20代がお金に余裕があれば、あとの人生はもっと変わっていたはずだと思わないではいられない。
業界のイメージだけで入ってみると
次に見つけた会社は広告代理店。
業種にも惹かれたが、面接で私が言った希望の仕事は無謀にも「秘書」。
もちろん秘書など経験もなければ資格もない。
ただのあこがれであった。
しかし若さと言うのは強力だ。
そう言って合格したのである。
広告代理店と言っても10人ぐらいの小さな会社で、理系の雑誌に精密機械関係の会社の広告を載せる仕事をしてるらしかった。
で、私にまかされた仕事は作った版下かなにかをいろいろな会社に持っていくというもの。朝、会社に出社したら、あとはひたすら都内を会社の場所を調べて歩きまわるのだ。
あと社長の身の回りの雑用。
これはつまらなかった。
何の夢ももてなかった。
広告のデザインができるようになりたいわけでもなく、精密機械に興味があったわけでもなく、ただ、広告代理店=かっこいい というイメージで入った私が悪かったのだけど。
結局、この会社は前の会社の半分ぐらいで辞めた。
会社の人はいい人で、温泉旅行に連れて行ってくれたり、靴を買ってくれたりしたが未練はなかった。
24時間勤務でバテバテに
若さと勢いで編集プロダクションに入社したが、任された仕事は大手旅行会社の発行する海外のガイドブックを改訂するというものだった。
ガイドブックが発行されて時が過ぎると、様々な数字を始め、いろいろなデータが古くなるのでそれを新しくしていくのだ。
今みたいにPCで検索すれば何でも知ることができる、なんてことはなかったので、大使館に足を運んで話しを聞いたり、海外の資料が集まっている機関に行って調べたりするのだ。
全くのアナログ。
時代は進んだものだ。
そんなにつまらない仕事ではなかったが、ただただ会社の24時間勤務みたいな働き方に疲れていった。
徹夜は当たり前、土日も出勤が多く、会社の仕事先であるスポーツジムからタダ券をもらって行った、なんて言おうものなら白い目で見られた。
会社は10人弱で社長以外は20代だったが、みんな不思議と不満は言わなかった。
みんないい人だった。
しかし私は半年ももたなかった。
辞めるきっかけは覚えてないが、何となく最初から無理と思っていたのかもしれない。
不安もなかった。
まだ仕事は捜せばすぐにあると思っていた。
校正の学校にいく
惰性でホテルの電話予約の仕事をしていたが全く面白くない。
手に職をみたいな気持ちもあり夜、校正の学校に行き始めた。
まわりに出版関係の人が多くいて、「カッコいい」という思いがあったことは否めなかった。
学校はお茶の水駅の近くにあり、年季の入った校舎だった。
出版の雰囲気がもう教室に漂っており、私はウキウキものだ。
しかし、すぐにその学校を辞めてしまう。
その後、運良く就職できた編集プロダクションの社長から、
「学校なんか役に立たない。実践が一番」と言われたからだ。
10万円近くお金を払ったのに、もったいないことをした。
まだ24歳ぐらいだったので
頑張れば校正者として独り立ちできたかもしれない。
後悔先に立たず。
ひたすら遊んでいた二十代前半
今日、9件目の不採用の通知がメールで届いた。
たかが、といってはなんだけど、スーパーの品出しのパートなのに「応募者多数のため」だって。
信じられない。
コロナの影響で夫の収入が激変した奥さんがそんなに多いのだろうか?
半年ぐらいまでは、4時間のパートなんて、行ったらその場で合格!
てなものだった。
本当に信じられない。
学生時代にやりたい仕事の勉強して、なんとかその仕事について、ずっとやり続けてスキルを積んでいたら、年がいってからこんな状況にはならなかっただろう、と思う。
将来のことを考えて、20代は遊びは二の次にしてひたすら仕事をすべきだろう。
さてそう言う私はまったく逆で、20代前半は、仕事は二の次で遊んでいた。
二度目の会社でコンピューター室からホテルの電話の予約係にまわされた私はウツウツとして過ごしていた。
女性が私一人であとの三人は男性という部署から一転、今度は女性ばかり15人ぐらいの部署であった。ほとんどの人が気が強くなじめない。惰性でホテルの予約の電話を受けては現地に流し、5時になるとさったと帰った。
うって変わってプライベートは華やか。バブルのはしりだったのだ。
なぜか有名企業の人たちとつぎつぎ知り合いになり、営業の人にはバンバンおごってもらった。
渋谷新宿あたりに飲みに行くのはもちろん、ドライブにテニス旅行にハイキング、、、
部屋代も払ってよくお金があったものだ。
全く貯金はできなかったけど。
しかしながら、
仕事がおもしろくなくても、会社で友達がいなくても、プライベートで遊ぶ友人が多く、出会いも多かったから、当時やっていけた、という気がしないでもない。