失敗は何かを学ぶためにある
若さの特権は「世界の中心は自分だ」と思っていることだろう。
そして
能力があるけど環境に恵まれたなかった、
本当は賢いんだけど成績が悪いのは勉強をしなかっただけ、
自分は特別なので回りの人が優しくしてくれるのは当然のこと、
適する仕事が世の中にはもっとあるはず、こんな仕事をしているのは合わない、
なんてことを少なからず思っていたりする。
まわりの人でも
「若いころってそうだったよね」
という人がいたし、恥ずかしながら私自身もそうだった。
私は若いころ、人より理解力と記憶力が優れていると思っていた。
「どんもそんなことはないらしい」
と気づいたのはなんと30歳少し前だった。
知人が4人ぐらいで何か企画して仕事をしようということがあって、その中で一番のリーダー的な人が説明するのだが、私にはさっぱり理解できなかった。
他の二人はわかっているみたいなのに、、、
そのときは結構な衝撃だったと思う。
世の中には私にはわからない難しい話しをその場で理解できる人が数限りなくいるような気がした。
学校の講義は学生に理解してもらおうと先生は話すし、テレビから流れる話しは大抵の人が理解できると思うけど、それは中以下の理解力を対象としているからだし、仕事先の人もこちらに効率よく仕事してもらうにはかみ砕いてわかりやすいように話すのだろうし、普通に世間で触れる話しを簡単に理解できるのは当然のことだったのかもしれない。
なんてことがわかるのは30歳前ごろで、最初の会社を辞めた23歳ごろの私は、若いというだけでチヤホヤしてくれる世間に甘え、自分を過信していたと思う。
最初の会社での仕事への態度で自分の至らなかった点も考えず、失恋した原因も考えず、2度目の会社は見つかったけど、それからずーと1年ぐらい何もせず、失恋気分に浸っていたのである。
何か失敗するのはいいけど、やっぱりそこから何かを学ぶべきだったと思う。
2度目の会社はリゾート関係の会社。
当時、女性誌などでバンバン広告を打って名前だけは売れていた会社だった。
しかし、信じられないことだがこの会社、時代もあるけど、すべてがシステム化されていなかった。例えばホテルの予約が電話で入ったならば紙の台帳に記入して電話で現地のホテルに流す、というように。
それでこれらをシステム化するために社内にコンピューター室を作り、社員のプログラムを組ませようとする案が立ち上がった。
私が配属されたのはそんな部だった。