コンピューター室でのこと
二度目の会社に配属されたのコンピュータ室。
当時すべてがアナログだった社内をネットワーク化するために社員にプログラムを学ばせてシステムを作ろう(もしくはメンテナンスさせる)というのがこの部ができた狙いだったらしい。
コンピューターの専門学校などでプログラミングを学んだ学生があふれている
最近では考えられないかもしれないけど、私が20代前半の頃はそういうこともあったのだ。
時代である。
仕事と言えば出社したのち、すぐに関係しているソフト会社に出向き、分厚いマニュアルを自分で勉強する、ときどきそこの社員に教えてもらう、というものだった。
お給料をもらって自分の知識になることを習得できるなんて超ラッキー!
なはずだったのだが、テストも受けなくてもよかったし、上司からは進捗状況など聞かれなかったし、研修先のソフト会社から結構は放っておかれたし、何よりも悪いことに私は泥沼のような失恋期間の中にいた。
ボーとした時を送り、何の知識も頭に入ってこなかった。
まわりに悪いと思ったがどうすることもできなかった。
ほかに2人いた同僚の男子からは
「田舎に帰ってスーパーのレジでもやれば」
なんてことを言われたが、あとは会社からも研修先からも文句は言われなかった。
あきらめられていたせいかもしれない。
会社では怠惰だったが、私生活では、最初の会社や学生時代の友人たちと遊んでいた。
鈍感なこと、まわりを気にしないこと、先のことを考えないことはある意味強みだ。。
運がいいのか悪かったのか、コンピューター室は半年ぐらいで解散になった。
お金がかかり過ぎるか、効率が悪いと会社は踏んだのだろう。
それからホテルの電話予約の部へと転属になる。
思い出すとダメ人間ですね。
でもとにかくここまで生きてきた。
この思いが最後の砦。
失敗は何かを学ぶためにある
若さの特権は「世界の中心は自分だ」と思っていることだろう。
そして
能力があるけど環境に恵まれたなかった、
本当は賢いんだけど成績が悪いのは勉強をしなかっただけ、
自分は特別なので回りの人が優しくしてくれるのは当然のこと、
適する仕事が世の中にはもっとあるはず、こんな仕事をしているのは合わない、
なんてことを少なからず思っていたりする。
まわりの人でも
「若いころってそうだったよね」
という人がいたし、恥ずかしながら私自身もそうだった。
私は若いころ、人より理解力と記憶力が優れていると思っていた。
「どんもそんなことはないらしい」
と気づいたのはなんと30歳少し前だった。
知人が4人ぐらいで何か企画して仕事をしようということがあって、その中で一番のリーダー的な人が説明するのだが、私にはさっぱり理解できなかった。
他の二人はわかっているみたいなのに、、、
そのときは結構な衝撃だったと思う。
世の中には私にはわからない難しい話しをその場で理解できる人が数限りなくいるような気がした。
学校の講義は学生に理解してもらおうと先生は話すし、テレビから流れる話しは大抵の人が理解できると思うけど、それは中以下の理解力を対象としているからだし、仕事先の人もこちらに効率よく仕事してもらうにはかみ砕いてわかりやすいように話すのだろうし、普通に世間で触れる話しを簡単に理解できるのは当然のことだったのかもしれない。
なんてことがわかるのは30歳前ごろで、最初の会社を辞めた23歳ごろの私は、若いというだけでチヤホヤしてくれる世間に甘え、自分を過信していたと思う。
最初の会社での仕事への態度で自分の至らなかった点も考えず、失恋した原因も考えず、2度目の会社は見つかったけど、それからずーと1年ぐらい何もせず、失恋気分に浸っていたのである。
何か失敗するのはいいけど、やっぱりそこから何かを学ぶべきだったと思う。
2度目の会社はリゾート関係の会社。
当時、女性誌などでバンバン広告を打って名前だけは売れていた会社だった。
しかし、信じられないことだがこの会社、時代もあるけど、すべてがシステム化されていなかった。例えばホテルの予約が電話で入ったならば紙の台帳に記入して電話で現地のホテルに流す、というように。
それでこれらをシステム化するために社内にコンピューター室を作り、社員のプログラムを組ませようとする案が立ち上がった。
私が配属されたのはそんな部だった。
人生最高の日々
次の仕事のアテもなく会社を辞めた私だが、特に不安はなかった。
私はまだ若く未来は可能性に満ちているような気がした。
しかもそれから3、4か月間、私の人生の中でも一番幸せのときを過ごすこととなる。
かなり盛り上がった恋をしたからである。
あとから思い出してもそれは最高の日々であった。相手の男性が最高だったかどうかはさておいて、、、
ただそれまでの私の世界にはほとんどなかった、おしゃれなレストランとか箱根へのドライブとかホテルのプールとかセレブな街でのテニスとか
そういうものが楽しかった。
人生やまわりの人々、全部が信じられる気がして幸せだった。
しかし、当然ながらなんの苦労も努力もなく手に入れた幸せは長続きするわけもなく、あっけなく幕を閉じた。
振られたのである。
その頃、次の会社が決まった。
(それまで、何故か辞めた最初の会社が呼んでくれ、アルバイトをしていたのだ)。
リゾート関係の会社だった。
どこかで旅行会社に未練があったのかもしれない。
そして退職することに
念願だった旅行カウンターは1年で転属に。
今度は旅行用品を売る店舗での販売だった。
場所は銀座4丁目。綺麗なビルの7階だった。
希望したならばいい職場なのだろうけど、なんせ前の部署で使えなくてまわされた、と重々承知していたのでおもしろくない。
7,8人いた同僚も1年目のような温厚な人ばかりでなく、かなり個性的な人も。
「同僚とうまくやろう」という気持ちの足りなかった私はかなり浮いていたと思う。
中年以降、パートをしてきた職場とは比べものにはならないくらい待遇もよかったし、仕事もラクだった。
しかし、他の部署で使い物にならない社員がそこの店舗にまわされて、やがては辞めていくというイメージが社内にはあり、わたしももろにそれを信じていた。
すごく賢くて性格もいい2人の新入社員が不本意ながらも頑張っていたというのに、私は踏ん張ろうという気持ちもなかった。
とうとう1年後会社を辞めてしまう。
3年ぐらいで、女子社員が結婚するでもなく、会社に不満があるわけでもなくどんどん辞めてしまう環境も影響していたと思う。
迷いはなかった。
まだ23歳ぐらいだったので、もっと大きな世界をみてみたい、とただそんな気がしたのだ。
会社に入ったなら嫌なことがあって当然だから死ぬ寸前まで我慢しなさいとか
まわりに振り回されるなとか
はっきりした夢とかやりたいことがないのに辞めたらダメとか、
やりたいことの準備や勉強ができていないのにただ辞めてもろくなことにはならない、
など入社前に誰も言ってくれなかった。
しかしこれらは事実。
親も別に強く反対しなかった。
温室のような最初の会社を辞めて、確かにいろいろな世界を見ることはできたけど、
それば迷走というか、、、
そんな20代であった。
たまに最初の会社で10年ぐらい働いていっぱいお金貯めて、その会社に関連した男性と結婚したらどんな人生だったろうと思うけど、
やっぱり私の性格と根性では無理だったような気がする。
念願の仕事に就けたけど、、、
入社1年目の春、私は晴れて旅行に携わる部署に転属された。
親会社から出向しているおじいちゃん社員や優しい女子の先輩社員には本当によくしてもらったのに、当時の私は感謝の言葉を言わなかったと思う。
恩知らずな私であった。
そんな性格だったし、自分の能力を自覚してない私は次の部署で地獄に落とされることとなる。
希望して配属になった旅行カウンターは、東京の郊外の大きなショッピングセンターの一角にあった。
店舗は狭かったがやたら売り上げがいいために社員はたくさんいる。ぶつかりあって仕事するみたいな雰囲気だった。
人間関係は前の部署とは雲泥の差で、店長は私と入社1年目の子に「使えない、犬猫の方がまし」と言うようなすごいおじさんで、前からいた二人の一流短大出の女子は見るからに冷たい感じ。
それに、旅行カウンターにあこがれていた私だが、超人見知りで知らない人と話すことが苦手だったのだ。
今はそんなことはないが、知らない人の前に出るだけで緊張する私であった。
21歳だった私は、航空券や電車の切符を売るのでさえ段取りよく聞いて処理することができない、まして「OO方面に行きたいんだけど、パックでもいいし、個人旅行でもいいし」なんていうお客さんとはどう話していいかわからなかった。
あこがれの仕事があっても自分の性格とか適正を考えた方がいいということですね。
当時あったテレックスとか航空券が出てくる機械もどうあつかっていいかわからない、お金をもらったときの伝票処理なんかも初めて。
しかし、忙しさもあったのだろうけど誰も教えてくれなかった。
プライベートなことで話しかけてくれる人もいなかった。
ただ仕事のできない邪魔者を見るみんなの目だけがあったと思う。
1年間そこにいたけど、私はどんな風にどんな仕事をしていたの覚えていない。
ただ、中年の女性のお客を怒らせ、おわびに会社のロゴの入ったバッグを上げようとしたが断られたこと、何かで損害を出して自分のお金を2千いくら出せと言われて出したことを覚えている。
アパートの近くの友人が留学をするのに来てくれて、そのときだけ店長がいい顔をした。
そう、その頃の私は学生時代から住んでいた町に友人がたくさんいて、その子たちと会うのだけが楽しみだったのだ。
いい会社で旅行を売る仕事をしているという見栄と友人がその頃の私の救いだったといえよう。
初めての会社
ウン十年前の私の就活の時期は超売り手市場だった。
なので会社もすぐに決まった。
業界一位の旅行会社、の関連会社でもちろん大満足だった。
会社としては全く問題がなかった。
場所は丸の内の大理石があしらわれた年期が入っているけど瀟洒な建物。組合もあるしボーナスは一年目にしては50万超え、人間関係も申し分なかった。親会社で売っているパック旅行は半額で行けたりした。
が、配属されたのはいろんな会社を提携し、グループ会社の社員に商品を割引価格で売る、という部署。
大手、もしくはそのグループ会社はこんなメリットもあるのですね。
電話を受けて注文を発注するだけだから仕事は難しくなく、定時で帰れた。当時は景気がよかったせいもあるけど、飲み会はタダ、忘年会でニューオオタニで宴会付きで1泊、なんていうこともあった。
今考えたら申し分がなかったんだけど、当時の私は世間知らずだったし「旅行の仕事がしたかったのに、、、」とおもしろくなくウツウツとした日々を送っていたように思う。
満員電車に疲れ、仕事が面白いとは思えない私はいつも体調が悪かったように思う。
結果、1年後、希望を聞かれ、配属先を変えてもらう願いを出すことになる。
あれから数多くの会社を経験したが、あれほど恵まれた職場はなかったのではないかとときどき思う。
新入社員が希望の仕事に就けないことはよくあることだ。
いくらそこが恵まれたとこでも、職場や会社が色あせて見え、不満が多い生活はおもしろくなくなる。
しかし、今思うに
石の上にも3年だ。
自分の働きで他の人にラクをしてもらおう、とか、心配りでまわりをなごませるとか、与えられたことをミスなく迅速にすることを心掛けるとか、本当にやりたい仕事のために勉強するとか、できることはいくらでもあるはず。
不満だけにとらわれ何もしなかったら、やりたい部署に行っても使い物にならない。
実際、私もそうであった。
遅刻!
就活(アルバイト含め)大事なことは、何と言っても
遅刻をしないことだろう。
ああ、それなのに昨日私は遅刻をしてしまった。
場所は車で5分ぐらいの、海岸沿いにある定食屋。
飲食店はほとんど経験がなかったが、調理の補助だというし、洗い物が多いだろう し、担当者のメール対応も丁寧だし、勤務時間帯もいいし、と思い応募した。
繰り返すが場所は車で29分のところ。30分前に出ればいいだろうとたかをくくっていた。で、暑かったので出がけにシャワーを浴びた。そしたらもう20分前、、、
1分ぐらい遅刻をしてしまった。
ダメだよね。
店長はいい感じだったんだけど。
これまで遅刻をして受かったところはない。
正確には塾がひとつあるのだが、ま、入ってみるとそれなりのところであった。
言い訳だが、年をとると時間の感覚がにぶる。
それがわかっているので、年の初めに
「予定時間の30分前には着こう」
と決心したはずなのに、どうもダメである。
勤務となれば遅刻をしたことなどないのだが、、、
仕方がない。
↑こんな夕陽が見れる海岸沿い。
場所はよかったんだけどね。